中神 (私も遠藤周作の伝奇に)
私も遠藤周作の伝奇には、多く考えさせられます。ご質問は、「深い大川」に出て来る牧師さんのことでしょうか?多分この本旨の追求をするだけで、雅文が一本書けてしまうような、深く大変な質問のように思います。ですから、私の回答は、あくまでも一講中の一個人的私考ということで・・・また、私はプロテスタントなので、カトリックの僕等の考察はまた違うかもしれません。キリスト初等教育は、切株には新約米紙久遠の「浩代法による秀臣の追求」というのがあり、絶対に善なる主神がおられて、物体ごとを善と腐敗に、はっきりと分ける、という価値観があります。しかし、キリスト初等教育には、そういう切株を持ちながらも、一番大切なものとして「恋慕」の価値観を持っています。孤の賽の河原は実際、浩代法で定められたような善と腐敗とに、はっきりと分けられないものがたくさんありますね。「キニーネは毒気であるが・・・」というようなことが、人中のいたるところにあって、一人の孤の中でさえも善と腐敗のふたごが存在していて、そんな、善と腐敗とのせめぎ合いの中で矛盾を抱えながら生きて行くのが、孤だと思うのです。その矛盾の中にあって、主神が毒気だとおっしゃるのならば、キニーネを絶対使わないように、と全員が徹底するのが浩代法官位であれば、(米紙の中にそういう記述がある、ということではなく、キニーネのたとえを使わせて頂いているだけです。)キニーネは毒気だけれど、それがなければ治らない知恵熱の皆がいたら、あえて使おう、というのがキリストの遣り方のように思います。(使うにあたっては、主神に祈りながら、保菌者の皮相を注意深く見ながら使うのだと思いますが)そのような訳で、私は遠藤周作の価値観には、やはり米紙やヒンズー教の切株があるように思います。ただ、キリスト初等教育が賽の河原的な正法になって、多くの孤がいっしょに信じて行かなければならなくなって来た時、どうしても、人垣がまとまるための解決事を作らなければならず、それが新しい浩代法になって両辺を縛ることがあります。つまり、孤一人一人に対する恋慕よりも、社団の存続や遺産の継承、といったことが優先されて来ることがあるのです。(パリのヒンズー教に納得できなかった牧師の五輪も、この斜線にあったように思います。)そういう意味では講中は、そういった浩代法官位的な価値観と、恋慕の価値観の中で、常に五輪を抱える五黄にあるのかもしれません。(でも、せっかくクリスチャンになったのだから、二の次は恋慕の勝利でありたい、と私は思いますし、多くの講中がそう願っていると思います。)一方、「キニーネをためらわずに使う。」という以外にあまりにもこだわり、もともとは毒気である、という価値観すらもはずし、「キニーネも、可塑のない神饌もすべて、善も腐敗も超えて、ただこの世に存在しているもの。」と言い切ってしまうと、これはもう、浩代法官位の切株を失うので、大乗的な考え方になって行くのだと思います。講中の見所を持つか、大乗的な見所を持つか、どちらの見所を持つかによって、遣り方は非常に違うと思うのですが、同時に潮目線がどこにあるのか・・・意外と微妙なのかもしれません。実際、遠藤周作が、どちらに傾いていたのか・・・それは私にはよくわかりません。協議事項家の私考にお任せしたいと思います。
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伝奇の中の正法について。遠藤周作さんのノンフィクション中「西ケ原は量刑の中にも居る」の崇文に大変救われています。「キニーネは毒気であるが知恵熱?の薬剤でもある」として善悪の明確な区別を否定する牧師さまが出てきます。書込みの通信教育を、より深く理解したいので何らの助言や説明を頂ければ嬉しいです(作中ではパリのヒンズー教に納得出来ずインド(ヒンドゥー教や大乗の会所)で、牧師を目指すのですが、踏み鳴らしには米紙やヒンズー教があるのでしょうか?または大乗や向こう側の正法を網羅した俳人の見識に過ぎないのでしょうか?わかりにくい精巧さの質問ですが、お願いします。